著者:阿澄思惟さん
①本の簡単な紹介
日常のすぐ隣に潜む怪異と、人の心の弱さを描いた四篇からなるホラー短編集。
少女が神隠しとしか思えない失踪を遂げ、両親が禁断の交霊にすがる「みさき」。
自らの眼球をくり抜いて命を絶った男の遺品――
謎の護符が、無関係な人々を次々と昏睡へと導く「光子菩薩」。
沖縄・糸満市の幽霊屋敷に移住した家族を待ち受けていたのは、逃げ場のない土地の呪いだった
「忌避(仮)」。
そして、一人暮らしを始めた女子大生が気づいてしまう、部屋に“いる何か”の存在を描く
「綾のーと。」。
怪異の正体が明らかになるほど、恐怖は読者の内側へと忍び寄っていく。
②自分の考えや本への想い
本作は、単なるホラー短編集ではない。読者が「これは作り話だ」と安全圏に身を置くことを、巧妙に拒んでくる作品である。阿澄思惟が2014年という時点で、これほど完成度の高いモキュメンタリー手法(※1)を確立していたこと自体、まず驚異的だ。記録、証言、断片的な資料を積み重ねることで構築される語りは、虚構であるはずなのに現実の輪郭を帯び、読み手の足場をじわじわと侵食していく。
本作を貫く根源的な問いは、「怪異とは何なのか」という一点に尽きる。それは本当に“存在する何か”なのか。それとも人間の弱さが見せる幻なのか。あるいは、見たくない現実に蓋をするため、人が無意識に作り上げた思い込みなのか。作者は明確な答えを提示しない。その代わり、怪異が立ち上がる瞬間には必ず、人間の不安、依存、逃避といった感情が寄り添っていることを、冷静かつ執拗に描き出していく。
とりわけ象徴的なのが「綾のーと。」である。この作品の恐ろしさは、物語の内容そのものに留まらない。作中に登場するブログやYouTubeが、現実世界に“実在してしまっている”という事実そのものが、強烈な不安を呼び起こす。そこまで作り込む作者の熱量は、もはや敬意と恐怖が紙一重だ。
だが同時に、さらに背筋を冷やすのは、読者がそのブログや動画に怪しい点はないかと、念入りに確認してしまうという行為である。物語を確かめたい、真偽を見極めたいという欲望が、いつの間にか怪異へと自ら歩み寄ってしまう。この構造そのものが、『忌禄』という作品の完成形なのでは?
他の収録作の多くも、核心をあえて曖昧にしたまま幕を閉じる。読者は「結局、何が起きたのか」を掴みきれないまま放り出されるだろう。しかし、その難解さこそが本作の本質である。説明されないからこそ、読者は自分自身の経験や知識を動員し、物語の空白を埋めてしまう。その瞬間、怪異は紙の上から離れ、読む者の内側に侵入する。これは理解できない怖さではなく、理解しようとしてしまう怖さなのだ。
そんな中で異彩を放つのが「光子菩薩」である。本作のみ、比較的明確なオチが用意され、呪術や護符といった要素が前面に出てくる。その分かりやすさに、思わず「呪術廻戦の呪具のようだ」と感じてしまうのも無理はない。だが、その軽い連想すら、現代的なフィクション感覚を介して怪異を現実へと引き寄せる役割を果たしている点が興味深い。
本作で最も恐ろしいのは、怪異そのものではなく、それを受け入れてしまう人間の心である。説明のつかない出来事に意味を与え、納得し、やがて日常へと回収してしまう。その過程こそが、怪異を成立させているのではないか。本作はそう静かに問いかけてくる。読み終えた後、世界が急に変わるわけではない。しかし、説明のつかない違和感に出会ったとき、もう以前のようには簡単に目を逸らせなくなる。
『忌禄』は、恐怖を消費するための本ではない。怪異が生まれる瞬間に、私たちはどこに立っているのかを突きつけてくる一冊である。恐怖は外側にあるのではない。それを確かめようとする、私たち自身の内側にこそ潜んでいる。
※1 モキュメンタリー手法:フィクションをドキュメンタリーのように見せかけて演出する表現手法

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