著者:吉田篤弘さん
①本の簡単な紹介
生きていくために必要ではないけれど、日常をやさしく続けていくためには、たしかに欠かせないものがある。
喫茶店〈ゴーゴリ〉の甘くないケーキ。
世界の果てのコインランドリーに通うトカゲ男。
映写技師にサンドイッチを届ける夜の配達人。
トランプから抜け出してきたジョーカー。
赤い林檎に囲まれて青いインクをつくる青年。
三人の年老いた泥棒。
空から落ちてきた天使。
終わりの風景が見える眼鏡──。
24つの短いお話しが綴られています。
眠る前のわずかな時間にページを開けば、月明かりのような物語が、今日という一日をやさしく終わらせてくれる。
②自分の考えや本への想い
物語というよりも、静かな時間そのものを差し出される一冊だ。ページをめくるたびに何か大きな出来事が起こるわけではない。それでも読み終えたとき、不思議と胸の奥に、ほっこりとした温度が残る。その感覚こそが、本書の最大の魅力だろう。
本書を包むのは、詩的で、やさしく、どこか懐かしい世界観である。登場するのは、夜、月、コーヒー、静かな街角、少し不思議な人々。どれも決して派手ではない。しかし、その一つひとつが丁寧にすくい取られ、柔らかな言葉で紡がれていくことで、日常の風景は現実からほんのわずかにずれた“物語の場所”へと変わっていく。インスタントで手軽にコーヒーを淹れられる時代に、あえて豆を挽く。そんなふうに、効率よりも手触りを選び、時間をかけて人生を味わう姿勢が、この物語の根底には確かに息づいている。
感情や明確なオチをあえて与えず、ただ「こんな話があるんだよ」と差し出される。だからこそ読者は、行間にそっと身を置くことができる。物語を「読む」というよりも、暖炉のある静かな部屋で誰かの語りを聞いているような感覚に近い。月明かりの下で、コーヒーの湯気が立ちのぼるのを眺めている。そんなふうに、時間の流れがゆるやかになる読書体験が、そこにはある。
特筆すべきは、この本が読者に与える心理的な距離感だ。励まそうともしないし、教訓を押しつけてくるわけでもない。それでも読み終える頃には、「明日も生きてみようか」と思えるだけの静かな力が、確かに満たされている。それは、寝る前に自分の好きなものを集めた宝箱をそっと眺め、ふふっと笑ってしまうような感覚だ。明日を生きるための活力が、じわじわと体温のように広がっていく。
だからこそ、本作は寝る前に読むのがよく似合う。一日の終わり、疲れた頭と心を抱えたままページを開くと、物語はそっと寄り添ってくる。嫌な出来事を忘れさせてくれるわけではないが、それらを抱えたままでも眠りにつける場所を用意してくれる。忙しすぎる現代を生きる私たちにとって、これは意外なほど稀有なことだ。
本書は、人生を大きく変える本ではないかもしれない。しかし、人生の中に「静かに立ち止まれる場所」をひとつ増やしてくれる本である。忙しさに追われ、効率や成果ばかりを求めてしまう日々の中で、こうした物語が持つ意味は、決して小さくない。

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