📙ブルーもしくはブルー

ミステリー小説

著者:山本文緒さん

Amazon.co.jp: ブルーもしくはブルー (角川文庫) : 山本 文緒: 本
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「もし、あのとき別の選択をしていたら――」

誰もが一度は想像したことのある“もう一つの人生”。
その誰もが抱える後悔や羨望を、あまりにも生々しく突きつけてくる作品だ。

主人公・蒼子は、東京で暮らす専業主婦。優しい夫がいて、生活は安定している。傍から見れば何不自由ない人生だ。けれど彼女の心には、言葉にできない空虚さがある。毎日を穏やかに過ごしているはずなのに、“自分が自分ではなくなっていく感覚”だけが静かに積み重なっていく。

そんな彼女の前に現れるのが、“別の人生を歩んだもう一人の蒼子”だ。

もし昔の恋人と別れなかったら。
もし安定ではなく情熱を選んでいたら。

もう一人の蒼子は、かつて自分が捨てた人生を生きている。そこから物語は、「選ばなかった未来」を覗き込むように進んでいく。

本作が鋭いのは、どちらかの人生を“正解”として描かない点だ。
専業主婦として安定を得た蒼子は、自由や情熱に飢えている。一方で、もう一人の蒼子は、自分らしく生きている代わりに、経済的不安や孤独を抱えている。

つまり二人は、互いの“持っていないもの”だけを見てしまうのだ。
「隣の芝生は青い」――そのありふれた感情を、ここまで残酷に描いた作品はそう多くない

比較はやがて羨望へ、羨望は自己否定へ変わっていく。
「あちらの人生のほうが幸せだったのではないか」
「本当の自分は、あっちだったのではないか」

そう考え始めた瞬間から、蒼子の精神は少しずつ侵食されていく。

そして本作が胸に刺さるのは、その苦しみが単なる“個人のわがまま”として描かれていないことだ。そこには、女性が抱える生きづらさが静かに横たわっている。

専業主婦として生きる蒼子は、安定した暮らしを得る代わりに、経済的には夫へ依存せざるを得ない。生活を守ってもらう安心感と引き換えに、自分の価値や居場所を少しずつ見失っていく。一方で、自由や情熱を選んだ人生も決して万能ではない。恋愛、出産、将来への不安――人生の大きな局面で、結局は男性の存在や支えを無視できない現実がある。
どちらを選んでも、“誰にも依存せず完全に自由に生きる”ことの難しさが付きまとってくる。

本作は、そのどうしようもない閉塞感を非常にリアルに描いている。
特に印象的なのは、“どちらの人生にも息苦しさがある”ことだ。
結婚しても苦しい。自由に生きても苦しい。誰かに守られても、自分で選んでも、
人は結局「ないもの」を欲しがってしまう。

山本文緒さんは、その感情を驚くほど静かに、しかし容赦なく描き出す。

本作には大きな事件が起きるわけではない。
けれどページをめくるほど、じわじわと息苦しくなっていく。専業主婦の孤独、女性らしさへの圧力、社会から切り離されていく感覚――そのどれもが現実に根差しているからだ。

だからこそ、この作品はSF的な設定を使いながら、驚くほど“現実的”なのである。

終盤になるにつれ、二つの人生の境界は曖昧になっていく。
どちらが本当の蒼子なのか。どちらが“正しい人生”なのか。読者自身も分からなくなっていく感覚がある。

しかし本作の核心は、「どちらが本物か」ではない。
どんな人生を選んだとしても、人は“選ばなかった人生”を美しく見てしまう。
そのどうしようもなく人間的な弱さを、本作は真正面から描いている。

そして蒼子は最後に、劇的な答えを見つけるわけではない。
別の人生へ逃げ込めば幸せになれる――そんな幻想が、静かに崩れていくだけだ。
けれど、その“答えのなさ”こそが妙にリアルで胸に残る。
人生はやり直せない。別の自分にはなれない。それでも、人は今の人生を生きていくしかない。

「あのとき別の道を選んでいたら、自分は幸せだったのだろうか」

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