著者:恒川光太郎さん

夜市はホラー小説大賞受賞作でありながら、いわゆる“恐怖小説”とは少し違う。本作にあるのは、正体不明の怪異に怯える怖さではない。もっと静かで、抗えない“ルール”そのものへの恐ろしさだ。
物語は、「今宵は夜市が開かれる」という一文から始まる。妖怪たちが集い、あらゆる“望み”を売り買いする不思議な市場。そこでは金銭ではなく、自分にとって本当に大切なものと引き換えに、欲しいものを手に入れることができる。小学生だった裕司は、その夜市で「野球の才能」と引き換えに、自分の弟を手放してしまう。そして大人になった今、彼は再び夜市を訪れる。失った弟を、取り戻すために。
この夜市という異界の描写が、とにかく素晴らしい。提灯の灯りに照らされた夜道、ざわめく妖怪たち、どこか湿り気を帯びた夏の空気。異形の存在が当たり前のように歩いているにもかかわらず、不思議と嫌悪感はない。むしろ、どこか懐かしく、幻想的で、美しささえ感じられる。
その空気感は、どこか千と千尋の神隠しを連想させる。人ならざるものたちが集う異界、理不尽なのに絶対的なルール、そして現実と地続きになっているような不思議な感覚。優しさと残酷さが同時に存在する世界観が、本当に魅力的だ。ただ怖いだけではなく、「ずっとそこに浸っていたい」と思わせるような幻想性がある。
しかし、この物語の本質は、その美しい世界の裏にある。夜市には絶対のルールが存在する。何かを得るには、必ず何かを差し出さなければならない。それは交渉でも救済でもなく、“等価交換”という決して覆らない掟だ。
そして恐ろしいのは、そのルールに誰も逆らえないことにある。怪物が襲ってくるわけでも、突然命を奪われるわけでもない。むしろ夜市は、こちらの望みを静かに叶えてくれる。だからこそ怖い。自分の欲望によって、自分から大切なものを差し出してしまう世界なのだ。
裕司が手に入れた野球の才能も、弟という存在の犠牲の上に成り立っている。その事実は、時間が経っても消えない。「今の自分は、誰かを犠牲にした結果なのではないか」という感覚が、物語全体に静かに漂っている。
再び夜市を訪れた裕司は、過去の選択と向き合うことになる。失ったものは本当に取り戻せるのか。それとも、一度差し出した時点でもう戻れないのか。
本作は単なる異界ファンタジーではない。“欲しいものを得るために、何を差し出せるのか”という、人間の欲望と代償を描いた物語だ。
夜市の世界は、美しい。だからこそ、その残酷なルールがより深く胸に刺さるのだ。

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