著者:今村夏子さん
①本の簡単な紹介
いつも同じ時間、同じ場所に現れる“あの女”。人々から「むらさきのスカートの女」と呼ばれる彼女に、ひそかに執着する“わたし”。距離を縮めたい一心で観察を続ける。
ほとんど語られない“わたし”の正体、不自然なほど一方的な視線。
やがて物語は、思いもよらぬ形で“役割”を反転させ、円環するように結びつく。
②自分の考えや本への想い
物語は、「むらさきのスカートの女」と呼ばれる一人の女性をめぐって進んでいく。彼女はいつも同じ時間、同じ場所に現れる。ベンチに座り、同じような振る舞いを繰り返すその姿は、日常の中に紛れ込みながらも、どこか現実からわずかにズレている。変わらないことそのものが不気味であり、“人間らしい揺らぎの欠如”が、彼女を得体の知れない存在へと変えている。
なぜ彼女はそこに居続けるのか。なぜ同じ行動を繰り返すのか。その理由が一切語られないことで、不気味さはさらに増幅されていく。
語り手である「黄色いカーディガンの女」は、そんな彼女に強く惹かれ、「友達になりたい」と願いながら観察を続ける。本作の特徴的な点は、語り手の心理描写がほとんど存在せず、行動だけが淡々と積み重ねられていくことにある。何を思い、なぜそこまで執着するのかは明かされない。ただ事実として「観察している」という行為だけが提示される。
しかし読み進めるうちに、読者の中で違和感の質が変わっていく。むらさきのスカートの女の“不気味さ”に向けられていた視線が、次第に語り手へと移り始めるのだ。彼女はあまりにも多くを知りすぎている。生活の細部、行動の癖、周囲との関係性。通常の距離感では決して把握できない領域にまで踏み込んでいる。
それは単なる観察ではない。もはや監視であり、侵食に近い。
さらに異様なのは、その執着の“密度”である。語り手は自分の時間をほとんどすべて費やすかのように、対象を追い続ける。その徹底ぶりは、常軌を逸しているにもかかわらず、感情の説明が排されているがゆえに、かえって冷たく、異様に映る。
気づけば読者は、「むらさきのスカートの女」ではなく、この語り手こそが最も危うい存在なのではないかという疑念に取り憑かれる。
本作の恐ろしさは、こうした異常性が決して劇的に爆発しない点にある。事件らしい事件は起こらない。すべては日常の延長線上で、静かに、しかし確実に逸脱していく。だからこそ読者は、「どこからが異常だったのか」を見失う。
異常な執着の果てに、私は“むらさきのスカートの女”を侵食し、その位置に取って代わり、そして今度は自分が、次の誰かに同じように狙われる側へと回ってしまったのではないか。
そんな終わらない連鎖の気配だけが、静かに残る。

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